年を取ると自分一人で幸せになるのは難しい

夏の夕方、金宮のロックを呑みながら今このブログを書いている五時ごろというのはこんばんはでいいのか、こんにちはなのか迷うところだ。

それはさて置き、僕の体感としてそして経験としてなのだけれど、どうも人間三十路を超えると自己満足だけでは自分を幸せに出来ないようだ。

自分以外の他者の喜び、信頼、頼りにされる、必要とされること、素晴らしいと思える物を共有することがゆっくりと不可欠になってゆくと感じる。

この場合の他者とは僕にとって自分を大切にしてくれて、また自分が大切にしたいと思える人々のことなんだよね。

僕にとっては家族や友人がそれに当たるだろう。

彼らの笑顔の無い人生を生きて幸福を得ようとするのは今の僕にとってはかなり難易度が高いといえる。

人生の大なり小なりの紆余曲折というのは当然あったのだけれど、僕を信頼して子どもを抱かせてくれたり、遊ばせてくれたり、些細とは言えない手伝いで頼りにしてくれたり、僕の知識と経験に基づいた贈り物に喜んでくれたり、他にもあるけど、このこと自体は本当に僕を幸福にしてくれた。

これは立場や収入、職務内容によるというのは重々承知なのだけれど仕事や職場の人間関係では得られなかった喜びだった。

大きな意味での仕事で幸せになることは不可能でないのだろうけど、僕には無理だった。

僕にとっての仕事とは幸せに成れるかどうかは別として、生きるためにやっておいたほうが無難なことである。

僕が幸福を感じることが出来たのは仕事外の方が多かった。

もちろん仕事をきちんと誠実に行うこと、チームワークを機能させることはとても重要だけど、「結局、お金貰ってるでしょ」という事実がどうしても心に残る。決して悪いことではないけれど、お金はそこに介在してる。これは仕事とそれによって発生する人間関係のストレスに支払われているように感じるのだ。

いわゆる給料は我慢料というやつだ。

いかん、酒が過ぎてきた、まとまりがないけどここまで。

明日これを読み返して、やり直したくなるのかなぁ。